駒込通信 第65号
「贈り物」
【聖書箇所:ヨハネ3章16節】
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
私は、もの心が付いたころから、真理とは何かということが気になってしょうがなかった。
中学生の頃、学校生活でいじめに近いこと―今よりも陰湿ではなかったが―に合い、そのことがそうした気持ちを強めて行ったとも思う。それまでののびのびとした生活が妙に窮屈なものになり、苦しみの内に、人生というものの意味を幼いながらに渇き求めていたのではないかと思う。
高校では武道を学び強くなって自信を得たいと願い、それに打ち込んだりもした。大学時代には、勉学のみならず遊びもよくしたように思う。その際のわが心の深奥には、虚しさとそれなりの模索があったのである。
社会人になり20代前半に、教会の門をくぐった。そこに何かがあると思ったからである。しかしそのころの自分にはまだ時期が来ていなかったのであろう。洗礼は受けたが、心の虚しさは消えなかった。数年間それなりに熱心に教会生活を送った。しかし虚しさは消えなかった。その後、座禅をしながら信仰生活を送っているカトリック神父の本を読み、座禅を始めた。自分の内に具体的な自己変革への願望があったのであろう。教会はそっちのけで、仏教の禅宗の臨済宗や曹洞宗の師家に付き、数年間座禅修業をした。それでも埒(らち)があかずにすべてを放棄して、自らの仕事である自家焙煎珈琲店経営に専念をした。仕事そのものの中に真理を見出そうとしたのである。お店はそれなりの名を挙げ評判を得、私自身も珈琲に関して相当な自信も身に着けた。しかし虚しさはいつも付きまとっていた。
そしてあるとき数年間読まないままで本棚にあった『絶望と希望』という本をさりげなく手にして読んだ。この著者はただものではないと直観し、著者の高橋三郎先生に電話をしたことが無教会に触れる最初であった。
その後仕事をしながら夜間の神学校に通い、高橋聖書集会で学び、高橋三郎先生からいろいろと教わり、祈り、苦しみ、暗闇の中を歩き続けた。
しかし思い返せば小学生時代に、信仰を持たないのに従妹に誘われて数年間興味本位で通った本郷の教会の教会学校や、ミッションスクールの中学・高校・大学でのわが信仰無き時代も、神の備え給う準備の時であったのであろう。そうした環境で、信仰を持たないのにもかかわらず、空気を吸うように聖書・讃美歌には親しんだところもある。ましてミッションスクールでもある中学でのあの苦しみの体験は、神の備えの一つであったのかもしれない。
もし独り子イエスがこの世に来られて十字架に付かなければ、私はどうなっていたかは自分ながら察しが付かない。あれほど模索し、苦しみ、空虚さを覚えていたわが心は、ついには十字架のイエスにより命の真清水に満たされたのである。
違うことなく主イエスは、神のこの人類への贈り物であったと断言できる。そして同時に思うことは、主イエスに真に命を贈られた者は、返って主イエスにわが命を贈り物として献げることになるということである。
降誕祭は今年もやって来るが、私は神から贈り物を頂きたいとは思わない。かえってわがすべてを残らず贈り物として主に献げたいのである。
独立伝道に入る際、師高橋三郎先生より内村鑑三先生の以下の言葉が記されている額を頂いた。その額は、いつも先生のご自宅の壁に掛かっていたものであった。
* * *
「神に献げよ」
汝の財産を神に献げよ、然(さ)らば神は己が有(もの)として之を守り、如何(いか)に紊乱(びんらん)せるものなりと雖(いえど)も能(よ)く之を整理し、再び之を汝に委(ゆだ)ねて己が(神の)ものとして之を使用し給ふべし。
汝の身体を神に献げよ、然らば神は己がものとして之を養ひ、疾病(やまひ)の重きに拘(かか)はらず能(よ)く之を癒(いや)し、再び之を汝に与えて己が(神の)ものとして之を使用し給ふべし。
汝の霊魂を神に献げよ、然(さ)らば神は己がものとして之を聖(きよ)め、汝の罪は緋(ひ)の如くなるも雪の如く白くなし、再び之を汝に還(かえ)して己が(神の)ものとして之を使用し給うふべし。
神に献げよ、神の有(もの)とせよ、神をして自由に其能力(ちから)を施さしめよ、然らば困難として免がれざるはなし、疾病(やまい)として癒されざるはなし、罪として潔(きよ)められざるはなし。
乱れし其儘(そのまま)、病みし其儘、汚れし其儘、今之を神に献げよ、而(しか)して神をして其大能を以て汝に代りて整理、治癒、救済の任に当らしめよ。
* * *
神に我を献げることは、自分の意志でできることではない。主が私にその命を捧げて下さったからこそ、私は主にすべてを献げることができるのである。
天上において再びわが師にお会いするときには、すべてを主に献げ尽くした師と同じく、私もまた主に献げ尽くした者としてお会いしたいというささやかな祈りをもこの降誕祭に持つものである。
(2013年12月6日)