『十字架の祈り』2014年3月号より
「神の国の姿」
1
6狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
7牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
9わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
10その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。
(イザヤ11:6-10)
2
ここにはそれぞれの生き物がそれぞれのままで生きている風景が示されています。これが神の国の姿であります。狼は狼でありながら子羊は子羊のままで生きている。いや生かされているのです。乳飲み子は乳飲み子のままで、毒蛇は毒蛇のままで生かされています。
それらをそれらのままに生かしめ給う御方がおられる。それは神である。イエス・キリストの神であります。
この「絵」の中には大人はいない。小さい子どもたちと乳飲み子がいるのみです。イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)と言われました。
何も知らない子どもは、大人ならば恐れる相手を受け入る能力を持っています。
ここにあるのはただ「わたしはあなたと共にいる」(創世記26:24)と言われる神の生命のみです。違う者同士が共にいる驚くべき一枚の絵であります。
3
キリストは、人間の罪によって十字架で殺されました。本来ならば恐れて離るべき毒蛇のような人間たちと共に子羊のようなキリストは共にいて下さるのです。
だから主にあるわたしたちも恐れずにいろいろな人々と共存せねばなりません。相手が蛇に見えても獣に見えても。人々に共に生きることを宣べ伝えねばなりません。それは主の生命によってこそ成し遂げられることなのです。
主の生命にあって、他と共に生きるべく一歩を踏み出す寛容さが大事です。
キリストがこの地上に現れた、そのこと自体がこの幻の具現化でした。
キリストがこの地上で望まれたことは、すべての被造物の共存でした。
すべての魂は輝いている。その神の国の現実をこの世の現実にするべく彼は地上を歩んだのでした。
彼は食卓に人々を招き、苦しむ人々を見て汝生きよと憐れんだのでした。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。(9節)
わたしはそのような国に住みたい。
神、人と共にあり。
人、人と共にあり
人、被造物と共にあり。