『十字架の祈り』2014年4月号より

 

「復活の生命を生きるとは」

  
    1
22主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。
23その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。
24その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。 25万軍の主は彼らを祝福して言われる。
「祝福されよ
わが民エジプト
わが手の業なるアッシリア
わが嗣業なるイスラエル」と。
(イザヤ書19章22-25節)

 



  エジプトとアッシリアは、聖書における歴史において、敵となり味方となって来ました。ここではエジプトが主によって撃たれ創り変えられた結果、アッシリアまで道が敷かれて友好の絆が生まれ、さらにその両国はイスラエルと共に世界の祝福の源となる、ということが語られています。
 出エジプト記では、エジプトの中で奴隷とされていたイスラエルの民が神によってエジプトから救い出されることが、神の救いの原点として記されています。このイザヤ書の文章は、そのことを彷彿とさせます。
 イスラエルの民をエジプトから導き出すときに、イスラエルの民をエジプトに従属しておこうとするファラオのゆえに神はエジプトに災いを下しました。ナイル川の水は血に変わり、膿の出る腫物がエジプト中の人々家畜に生じ、ついにはエジプト中の初子は、神に撃たれ、死に至ったのでした。その後、モーセがイスラエルの民をエジプトから率いて出ると、ファラオのエジプト軍は彼らを追いかけたのですが、葦の海でモーセが手を海に向かい差し伸べると海の水が分かれ、そこをイスラエルの民が通り、追いかけてきたエジプト軍が通っているときに再びモーセが手を海に向かい差し伸べますと、海の水は元に戻り、エジプト軍は海に呑まれて全滅しました。
 エジプト人は、海水に呑まれる前に、主を恐れて、こう言っています。
 「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる」(出エジプト14:25)
 よく、「弱きを助け、強きを挫(くじ)く」と正義の味方のことを譬えて言いますが、神はまさにそのような御方であり、私たち人間のはかない力を越えて、神の力は神に背く国を撃ち、神に撃たれたその国は癒されるのです(22節)。

 

      2
 ついには極悪の国も祝福の国となるのです。

 

万軍の主は彼らを祝福して言われる。
「祝福されよ
わが民エジプト
わが手の業なるアッシリア
わが嗣業なるイスラエル」と。(25節)

 

ここに敵対する国のない、平和な最終的世界が示されています。日々の新聞報道で、ウクライナの危機などを見るときに、この神の平和とのギャップに私たちは為すすべもなく歴史の中に立ち止ります。
 どこに希望を見出すのか、が問われています。

 

      3
 4月20日はイースター(復活祭)です。主の復活とは何でしょうか。それはこの完全なる平和(ヘブライ語で「シャーローム」)がすでに実現していることを知らされる、ということであります。主は完全なる御方なのですから、その完全なる生命を知らされるということであります。
 ここに人類の唯一の希望があるのです。

 

      4
 世は不完全でも、キリストは完全です。その平和と自由に生かされるようになることが、復活の生命に与ることであります。
 和解とはそれを目指すことではなく、それがもう既に成っている事実を知ることであります。
 黙示(apocalypse アポカリプス)とは夢や幻ではなく、神の現実であります。
 信仰とは、神の完全なる現実を食らい生きることであります。
 信仰とは歴史の終わりを目指すのではありません、歴史の終わりに生きることであります。

 

      5                 
 主よ、今こそあなたの勝利の凱歌を歌わん。
 「われすでに世に勝てり」(ヨハネ16:33)
                             (2014年4月15日)



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