『十字架の祈り』2014年5月号より
「為(せ)ん方尽くれども希望(のぞ)みを失わず」
1
「為(せ)ん方尽くれども希望(のぞみ)を失わず」は文語訳ですが、新共同訳では「途方に暮れても失望せず」と訳されています。人間的な力を尽くし切りこれ以上なす術が無くなったときにも希望はあるのだ、ということです。
しかしよく考えれば、神の御前においては、人間の力などは何の役にも立たないのです。むしろ為ん方尽きたところから、神の力が現れるのです
2
十字架上のイエスは為ん方尽きた御方でありました。
手足を釘で打たれ、微動だにもできず、ただ動くところは、祈る唇と、天を仰ぐ眼のみでした。
無力のどん底で彼はすべてを父なる神に委ねたのです。
マタイ福音書は、彼の最大無力の時の神の力を如実に語っています。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。(27:50-53)
「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」―彼は無力のどん底でこそ、彼の戦いの相手であった擬似的宗教なる神殿の力の崩壊を成し遂げたのでした。彼の無力の死とこれから起こる復活こそ、真実の神殿でした。
そしてついには彼の十字架刑を執行した者たちに、
「本当に、この人は神の子だった」と言わしめるに至ったのでした(54節)。
3
神を信じ神にすべてを委ねる者の最大無力の場は神の力が最大に現れる時であります。
彼の十字架に至る歩みは厳格に無力であります。
殴られ、唾を吐きかけられるほどに無力でありました。
彼にはただ、父なる神を信じることしかありませんでした。
すべてを父なる神にお委ねすることしかありませんでした。
彼は為ん方尽きた者でありました。父なる神により為ん方尽かされたのであります。
為ん方尽きた時に彼はすべてを神に委ねる者となりました。
それは恵みでした。
神の御栄光が現れるための。
主よ、われらを無力にならしめたまえ。
主よ、われらが無力であることを心より感謝します。
無教会はなんであるか?無力会である。
あなたの十字架のごとくに。
(2014年5月13日 高橋美佐子様の告別の日に)
【追悼】
まさに高橋美佐子様の死は、主の十字架そのものであったと信じます。それならば必ず復活するのです。