『十字架の祈り』2014年11月号より

 

「サタンかユダか」

  
        1
1さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。2祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。3しかし、12人の中の1人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。(ルカ22:1-3)

27ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。 (ヨハネ13:27)


昨日、渋谷聖書集会有志の方々が高橋三郎先生の事故後、金属労働会館においでになってされた9つの講話(2000-2002年)を収録したCDを作製してくださり、それが郵送されて来た。
 さっそく冒頭の「救われた人の讃美」(2000年6月4日)を聴き、私も参加していた高橋聖書集会での懐かしい時を思い出した。これは詩編第22編をめぐる講話であるが、この中で以下のような言葉を高橋先生は語っておられた。
 
 「さらにもう一言、イエスを十字架の死に追いつめたのは誰であったか、と重ねて問い返してみよう。目に見える現実としては、サンヘドリンの要人たちがイエスに死を宣告し、ローマの官憲や兵卒たちがこの刑を執行したのだが、背後からこのすべてをあやつった元凶はサタンであった、という事実を見落としてはならない。ヨハネ福音書13章の語るところによれば、最後の晩餐の席で、イスカリオテのユダの中に、サタンが入ったという。そうだとすれば、大祭司を頂点とするサンヘドリンの要人たちの中にもサタンがン入り、ローマの官憲やイエスの処刑にあたった兵卒をはじめ、十字架の下から嘲り罵った群衆に至るまで、すべてがサタンにあやつられていた、とみなければなるまい。」
 (「救われた人の讃美」〔『十字架の言』2000年7月号、『高橋三郎著作集』最終巻所載〕)

 

この見解は、私も同じである。
 「イスカリオテのユダの中に、サタンが入った」ならば、私たちの対する相手は、ユダではなくサタンである。サタンが入った人間が対象なのではなく、サタンである。そして同時に私たちの中にもサタンは入り込み、イエスを十字架の死へと追い詰めるのであることを知るときに、わが内にあるサタンと戦わねばならぬ。
 しかしその勝利は、サタンに導かれ出ずるすべての罪を背負い十字架に架かられ給う主イエスの死と復活により決着したのである。
 その勝利のあかつきには、私たちの罪と同列のユダの罪も赦されねばおかしいではないか。
 滅ぶべきは人ではない、サタンである。サタンは滅んでもユダは滅んではならないのである。

 

        2
 私たちの冷静になるべき視点は、人間をサタンと同一視しないことである。霊力を持つサタンは人間に魅入り入り込むのである。
 サタンに魅入られた人間は、必ず恢復する。主イエスの復活の命によって。
 人間をサタンと同一視し滅びの宣告をするときに、その個人を残虐な死刑にすら至らせることがあろう。
 たとえ裏切り者ユダであろうとも、主イエスの贖いにより彼の中に棲むサタンが滅ぼされることで、主の御許に立ち帰る、という希望と祈りを持ち続けることがだいじである。
主イエスの贖いの業は、ユダの地上の命が尽きた後にも、主の再臨の時まで働き続けるのである。
 人間個々をサタンと見ずに愛して恢復を祈るということは、私たちのささやかな対人関係に深く反映していく。
 敵のために祈れる人になって頂きたい。
                              (2014年11月12日)



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