『十字架の祈り』2014年12月号より

 

―救い主なるキリスト ―降誕祭讃美―

 

       1
 私は主イエスを殺したことがあります。
 その時のことを振り返るに、私自身どうしようもない衝動に駆られて、その罪を犯してしまったのでした。

 すでに聖書を読み始めていたときですので、私はその後どうしようもない罪の呵責(かしゃく)に陥りました。
 それまではそれなりに信仰と言われる道を歩んできたつもりでしたが、自分の歩みが砂上の楼閣のように思え、虚しくもなりました。

 つらく切なく、足元が崩れ去るような、まさにこれまでの自分が「白く塗った墓」(マタイ二三27)のような虚飾にまみれたもののように見えました。

 実際そうであったのかもしれません。

 そして「ああ、私は主イエスを殺してしまったのだ」という自覚に至りました。
 私は、イエスを殺すことが分かっていて、つまり罪を犯すことがわかっていて為したからです。

 いわゆる故意の殺人です。

 殺そうとして殺したのです。でもあのときはどうしようもなかったのです。
 イエスを殺そうとして殺したユダと同じです。

      

       2
 あるとき声が聴こえて来ました。

「わたしはユダをも赦す」

 それは主イエスの声に違いありませんでした。

 その声を聞いた瞬間、私は救われたんです。
 名刀で切り裂くように心の霧が晴れました。

 

ユダの救いはわが現実でした。

 主イエスは、故意に主イエスを殺す者をもお赦しになる方です。
 十字架の力が、ユダをも赦さなければ、たいしたことのないものです。
 十字架の力は、ユダをも赦し給うからこそ、ものすごい力なんです。

 ユダの赦しを除外した赦しの力を論じることは、虚しいことと思います。
 私たちの信じる十字架はユダをも赦す、殺人者をも赦すすごい力を持っています。

      

       3
 私の生涯は何なのでしょうか。
 常に真実を求めていました。
 心に穴が開いていたのです。
 虚しさという名の穴でした。
 それをふさいでくれる真実を求めていました。
 そのために勉強もしました。奔放もしました。
 教会へも行きました。仏教も学びました。
 禅宗の老師に就いて参禅もしました。
 苦しかった。

 

長い道のりを歩んで、遂に罪の赦しの福音に辿りつきました。

 

そこにおいて遂に私の心の穴が埋まったのです。

 

私の人生は主イエスに出会うためにありました。
 主イエスは私に出会い救うためにこの世に来られたと信じます。

 

私は何もこの世でなしえないかもしれないけれど、
 唯一、私の生涯にわたって風が吹きすさんでいた心の穴が、主イエス、あなたによって塞がれて、今や安らぎのぬくもりを感じている、ということの一言を述べて死にたいのです。

 

私はそれを発言するために生まれてきたのかもしれません。
 この愚かものの人生はあなたの救いを証しするためのものです。

 

主よ、あなたの御降誕に感謝します。
 救ってくださってありがとうございました。
 あなたをほめ讃えます。  

 

 カルバリ山の 十字架につき、
   イェスはとうとき 血しおを流し、
   すくいのみちを ひらきたまえり、
   主イェスの十字架 わがためなり
   十字架、十字架、
   主イェスの十字架 わがためなり

  かくもたえなる 愛を知りては、
  身もたましいも ことごとささげ、
  ただみめぐみにすがるほかなし、
  主イエスの十字架 わがためなり
  十字架、十字架、
  主イェスの十字架 わがためなり

  イェスよ、血しおを われにそそぎて、
  いまよりわれを きよき宮とし、
  とこしえまでも 住まわせたまえ、
  主イェスの十字架 わがためなり。
  十字架、十字架、
  主イェスの十字架 わがためなり

 

       (讃美歌第二編一八五番)


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