『十字架の祈り』2015年1月号より
天からか人からか
―無教会精神の確認―
1
ローマ書4章11節にはこうあります。
アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
ここでパウロは、割礼を受けるまえに、すでに義とされている、つまり救われているアブラハムの姿を示しています。
この割礼を「洗礼」と入れ替えるならば、洗礼式を受ける前に、神の恵みが信徒の上にあり、その恵みの証しとして、洗礼式を受けるということになりましょう。
ここに於いて、信仰において、人間の側のアプローチが最初なのではなく、神の側からのアプローチが最初であることが示されているのです。
2
内村鑑三先生は、このように語っております。
キリスト信者とはもちろんキリストを信ずるものである。しかし彼はじつにみずから信じて信者となったのではなくして、神に信ぜしめられて信者となったのである。彼の信仰は救済(すくい)の結果であって、信仰が救済の原因であるのではない。「なんじの信ずるは神の大なる能(ちから)のはたらきによるなり」とは聖書が力をこめて宣べ伝うるところであって、われらは信仰によって救わるというものの、その信仰そのものが神の特別なるたまものであることを、われらは決して忘れてはならぬ。
(下線筆者。『一日一生』6月27日、『感想十年』)
実に、この「信仰は救済(すくい)の結果」であることを、無教会人は信仰の中心的機軸として明確にすることが求められていると思います。
同時にこれは教会・無教会に拘わらず、すべてのキリスト者が共有できる、聖書から学び取ることの出来る信仰の基本であると受け止めています。
3
「信じる」ということを必要以上に強調するとき、「救いの結果信じる」の「救いの結果」が欠落していきます。そうすると、ただ人間的努力で信じるという逆転現象に陥るのであります。
内村先生も、私の師である高橋三郎先生も、それを知っておりました。知識としてではなく、体験的にであることは確かでありましょう。
マルチン・ルターも『キリスト者の自由』などで「信じる」こと、「信仰」を強調し、ましてや「信仰を不断に鍛錬し」などと人間的努力のように思える言葉で語っている箇所はあるのですが*1、ルターの中にも後に記すような人間的な残滓があることは事実であり、それを見抜く目を持たねばなりません。
信仰(信じるということ)は救いを得るための条件ではないことを再確認することがだいじです。逆であります。神より恵みによって救いを与えられた結果信じるようになるのです。
高橋三郎先生は、かつて雨宮栄一牧師との対談でこのようなこと語られました。
「礼拝とは生ける主の御臨在を仰ぐ場である、と私は考えています。そこで語られる言葉と祈り、また賛美の中に主が臨在される。信仰とは、その恵みにあずかる通路のようなもので、救いの条件ではないにしても、恵みの賜物として与えられるものでありますから、信仰は端的に救いそのものだ、ということができると思うのです」(下線筆者)*2 。
私たちはまず、天に目を向け天来の恵みに生きねばなりません。人間の側からの努力を放棄しなければならないのです。
「信仰は救済(すくい)の結果」。このことを心に明記いたしましょう。
無教会の現状を見渡すときに、逆転現象を意外に目や耳にするのが現実であり、私は危機感を強く持つに至っています。
それが故に「天からの恵み」を、端的に今号の中心課題といたしました。
4
内村先生は、すべての人が救われる「万人救済」を一生涯の内に四回、文章にしました。一方彼は、裁きを伴い少数の者が救われる「少数救済」も語りました。
これを矛盾と捉えるでしょうか?私はそうは思いません。救いは天来のもの―神の側からのアプローチ―であることを知るときに、その両方が信仰者の中に矛盾的に同時成立するのです。
一方、救いに人間の側のアプローチから与ろうとするときに、自己絶対化が起こり、自分を含む同じ考えの者しか救われないという偏狭な世界に入り、自分と違う者、違う存在を断罪する信仰となる傾向を持っていると思います。
「信じる者は救われるが、信じない者は救われない」という偏狭な信仰理解へともなりかねません。
5
教会で洗礼・聖餐が制度としてあること、神の生ける啓示が教義化・定式化されているということは、当初はそうでなくとも、次第に、そして時折、それら天来のものが人からの人間的なものにすり替わる危険性が強いのかと思います。教会のレベルで、個人のレベルで。
ましてや今日、無教会の中にもそれと似た現象を散見するのです。
原因は何であるか?くり返しになりますが、初めにあるべき天来の恵みを見失っているからです。
マルチン・ルターは、天来の恵みによる義認、いわゆる信仰による義認を見出した優れた宗教改革者でしたが、その彼が言う「信仰による」の中に、幾分かの天来ならざるもの、人間的な残滓があった、ということ、その結果カトリックの中の七つのサクラメントの内の二つ―「洗礼」「聖餐」を残してしまった、ということをこの後の「万人救済を見据えて」で見て行きたいと思います。
つまりマルチン・ルターの宗教改革は不徹底であった、ということであります。
6
無教会とは何か。それは天来の恵みのみに与り生かされることである。私たちの信仰はそこにおいてこそ立ち得るのだ。その立ち位置においてこそ、ルターが見出した宗教改革を徹底させることになるのである。それは歴史的に私たちに与えられている役割であり、使命であることを、今日只今、しっかりと心に刻むことが限りなくだいじであると思います。
今号は、「天来の恵みのみ」をあえて明示し、主張し、共に学びたいと思います。
無教会はキリストの十字架の恵みにおいて教会と一致し断絶していない、しかし一方でこの世的に「無教会」と言うべき理由がある。そこをも明らかにしたいのです。
教会の皆様、今号をして、無教会の自己主張として嫌わないでいただきたい。よくお読み頂ければ、教会・無教会に関係なく共有できる当たり前のことを言っているということに気付いていただけると信じています。
なお、拙論「万人救済を見据えて」(改訂版)は、2014年4月30日に駒込キリスト聖書集会伝道所で行われた「福音の前進と無教会」講演会で語ったものをただ今の時節・事態に合わせ、最近の聖日礼拝で語るために改訂したものです。また高橋三郎先生の「ねたむ神」は無教会精神を、「天来の恵み」をルターにも言及しつつ明らかにしてくださっています。
「天からか、人からか」。
今号では、それを問いたいと思います。
(2015年1月11日)
1 マルチン・ルター著 石原謙訳『キリスト者の自由・聖書への序言』岩波文庫、1955年(2002年)、17頁。
2 『独立伝道の歩み』キリスト教図書出版社、1985年、235頁。『高橋三郎著作集』第二巻、教文館、2000年、269頁。