『十字架の祈り』2016年1月号より
<年頭所感>
神の理想 ―新しき年の初めに―
新しき年が来ました。単に暦をめくるのみならず、神の理想に目覚める新年でありますように。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書2:4)
このイザヤの全き平和の理想は現実であります。
注意せねばならないことは、文頭にありますように、この理想は神の裁きと戒めを通して初めて与えられるということです。
安易な理想主義ではないのです。
裁きと戒めを通して、神の理想は信徒の中で現実となるのです。
自己の争う心を神に徹底的に裁かれることがだいじです。
イザヤはそのことをよく知っていた預言者でした。
裁きは神の愛であります。
神はわが子を愛しているから裁くのです。
わたしは子らを育てて大きくした。
しかし、彼らはわたしに背いた。
(イザヤ書1:2)
今回二つの聖書講話にて、隔絶した神の理想と清さに生かされる生きざまを語りました。生ける神の御前に、単なる正義感や飾り物は捨て去られねばなりません。
神の理想に生き抜く一年でありますように。
その単純な生き方こそが、世界を清めるのです。