生きる根拠 (伝道所掲示板より 2019年4月1日)
人の存在が他人に価値をつけられて色づけられ、他人の価値観によって決められた結果、自己に失望・絶望し行く手を見失うという事が今日の状況ではないかと思う。次の言葉は内村鑑三の弟子である畔上健造(あぜがみ けんぞう)の言葉である。人の生きる根拠は人間にではなく神に帰されねばならない。それを知る時、人は初めて本当に生きる事ができるのである。
「私は唯在るだけのものである。ほかに何の価値無きものである。しかし神が私を在らしめたが故に私はあるのである。神が私を在らしめずして私の在る筈がない。神が私を在らしめたと云ふのは、私といふ者を在らしめる必要が彼にあったからのことである。どんな必要であるかは私には解らない―何の必要ありて天地萬有を彼が造ったか解らぬやうに、解らない。けれども解らなくてもよい。ただ彼が必要があったから私を在らしめたのだ、と云う事さへ解ればよい。そして之が私の最も強い、最も深い、最初にして且つ最後の私の拠り処である。私はこの一義を我魂にしかと抱いて、荒波の湧きかへる現世を歩いてゆくものである。」
(畔上健造「私はたゞの人である」より)
いかなる者も神に必要とされているから生かされているのである。人によって生きるのではないのだ。
( 2019年4月1日 )