神が罪となった―贖罪論から信仰義認論へ(2022年5月16日)


 

神が罪となった―贖罪論から信仰義認論へ


 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

(コリントの信徒への手紙二 5章21節)


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 この箇所を贖罪論として見る見方もあるが、私はここをパウロの信仰義認論と捉える神学者・青野太潮氏の見解に賛同する(青野太潮『「十字架の神学」の成立』512頁)。それはエーベルハルト・ユンゲルの視点でもある(エーベルハルト・ユンゲル『死―その謎と秘義』蓮見和男訳、190-193頁)。


  パウロはここでキリストが罪となったことを語る。それはキリストと一体である神が罪となることである。そしてそれは神が真に人となったことであり、神が私たち罪人と同じ罪人になったことであった。


   三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、

  「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

                               (マルコ15:34)


 このイエスの十字架上での最期の言葉は、神を信じられなくなった者の叫びであった。イエスの最期は不信仰者であった。

 神は不信仰者になり、この世の不信仰者を受け入れたのである。その不信仰者の一人に、この私がいることを知る。今もなお、神は「十字架につけられたままのキリスト」(Ⅰコリント1:23、2:2、ガラテヤ3:1)の姿で、罪人なる私を受け入れてくださり続け、受け入れたものを義として。信を与えているのである。

 これは信仰義認論であり、贖罪論ではない。

 犠牲を伴う贖罪論は律法主義の枠内においてこそ成立するのであり、私たちはもはや律法主義の影響力からは完全に離れねばならない。贖罪信仰にある限りは、その者のどこかに律法主義的がんばりが生じるのである。つまり行為義認の傾向をはらむのである。

 この信仰義認論に基づく罪の赦しの福音を、無教会の新たなる立脚点として、私は語り始める。

 神は不信仰の者―罪人―となり、無力な者、苦しむ者、悲しむ者、貧しき者、の姿になり、その者の前に現れ、その者を受け入れ義とするのである。その時、無力な者は無力のままで、苦しむ者は苦しむままで、悲しむものは悲しむままで、貧しき者は貧しいままで、ありのままの自分で、そのままで救われるのである。そのままでよい、との神の然りを心の耳に聞くのである。

 そのような慰めの神を私は信じる。パウロと共に。

 2022年5月16日 伝道者 荒井克浩