奇跡的なクリスマスではなく


 マルチン・ルターは、このように語った。


 「われわれは信仰によって神の肉性の中に生きているが、神はその肉性と人間性においてわれわれを統治し、われわれをご自身と同じかたちにする。すなわち十字架につける。それは不幸でありながら高慢な神々を、本当の人間、すなわち、悲惨と罪における人間にするという仕方による。つまり、われわれがアダムにおいて神に似たものへ上昇したので、神はわれわれに似たものへ下降した。それによってわれわれをわれわれ自身の認識へ立ち帰らせるためである。これがすなわち受肉の奥義である。」

(H・J・イーヴァント著/竹原創一訳『ルターの信仰論』より)


 クリスマスつまり受肉とは、神がわれわれに似たものへ下降したことであり、それはすなわち神が悲惨と罪における人間になることである、とルターは言っているのであろう。


イエスは、処女降誕で生まれたのではなく、マリアの婚外妊娠によるものであろうと、私は考えている。世にいう不幸な形で生まれたのである。決して奇跡的な聖なる「処女受胎」によって生まれたのではない。


神は人間の最も不幸な形で生まれたのである。そして人間の最も不幸な形で死んだのである。その生涯も、人間の最も不幸な姿であった。十字架につけられたまま生れ、生き、死んだのである。神は神であることを放棄し、人として生まれ、人として生き、人として死んだのである。


神は人となり、人と共に生き、人と共に死なれる―インマヌエルー。


だからこそ、この世で最も不幸な人々が、その神によって救われるのである。世で否定されている人々は否定された神によって救われるのである。

これがクリスマスの喜びであると信じている。
私はクリスマスに奇跡を見るよりも、人間を見たい。

 (2023年12月 降誕祭)