「十字架につけられたままのキリスト」との共振・共鳴


大貫隆氏は、青野太潮氏の著書『どう読むか、新約聖書』の書評で、次のようなことを書いておられる。この書評は、青野氏の『どう読むか、聖書の「難解な箇所」』に、『週刊 読書人』に掲載されたものの再録として収められている。


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生前のイエス自身には「贖罪死」への意図は皆無だった。 最期の十字架上の絶叫は事前のシナリオなしの、リアルな恐怖と苦悩から出たものだった。パウロはその無残な最期に、前述の神の逆説を感じ取った。それは、イエスの十字架が彼の外側で起きた志向性ゼロの出来事でありながら、意図せざる形で、パウロの内面に呼び起こした応答である。このあたりの著者の論述には、弾かれた一本の弦が隣の弦を「共振」 (共鳴)させることを想わせるものがある。その時、イエスの十字架は、パウロにとって、根源的な罪(エゴイズム)に呪われてきた自分に向かって、神が発した「ゆるし」だった。それをパウロは「御子がわたしに啓示された」、「わたしは復活したキリストを見た」と言い表す。その御子は、復活の後も、パウロにとって、「十字架につけられたまま」の顔をしている。パウロはその後の苦難の実存をその顔に重ねて生きて行く。(青野『どう読むか、聖書の「難解な箇所」』[ヨベル〕271頁)(傍線荒井)


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パウロにとって、復活者は「十字架につけられたままのキリスト」であった。パウロはその復活者に共鳴・共振したのである。まずは復活者からパウロへ共振・共鳴してきた。その復活者をパウロが見て、その復活者に共振・共鳴したのである。これがパウロの回心の姿であった。この共振・共鳴の事態をしてパウロは「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ2:19-20)と言ったのである。彼の生涯は、この復活者と共振・共鳴し続けた生涯であった。
 マルコ福音書15:39には、十字架につけられたまま死んだイエスの前で、突然ローマの百人隊長が、「まことに、この人は神の子だった」と信仰告白をしたことが書かれている。福音書にはその理由が書かれていなく、その告白は唐突に思える。何が彼に告白させたのか。十字架につけられたまま死んだイエスは、そのまま復活者であった。その復活者に彼は共振・共鳴したのである。理由なく共振・共鳴したのである。
 共振・共鳴。これは贖罪ではない。神の限りない愛と赦しである。私どもも理由なく単純に、「十字架につけられたままの神」に共振・共鳴したいのである。


 (2024年3月15日)