生命の基点
私が知っている方で、事故のために意識障害を起こし昏睡状態が数年続き、寝たきりになっておられるKさんという方がおられます。その方は「信じる」ことすらできない状態です。しかしこのような方こそが救われる信仰でなくては信仰とはいえない、と私は考えています。
このような方に「罪」を問うことなどできませんし、「信じる」ことを求めることなどもできるはずがありません。
このような方が無条件に救いの内にあることは、その方が「すでに救われている」ことを確認することで知ることができます。
滝沢克己という神学者はこのようなことを言っておられます。
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ところが私が発見した、先生(荒井注:カール・バルトのこと)のおかげでそこに目が
覚めたそのファクト、その事実というのは、はじめから神様と、どうにもならないこの私
とが、無条件に直接結びついているということです。・・・・本当に単純至極のことで、
ただそうだからそうだという原決定の、あるいはその決定の、姿なき主の決定の支配のも
とにしか私がいない、存在しないし、また生きることが出来ない。自分ではそうではない
と思っていても実はそこにいる。ここにいるというそのこと、それが失われることを恐れ
る必要のない生命の基点・支点があるということです。そういうことがわかったのです。
それを簡単にカール・バルトの言葉で申しますと、「神共に在ます」、第一義のインマ
ヌエルというふうに言います。これには何にも根拠づけというものがいらない、こっちの
信仰不信仰ということとは全然無関係に神様がいらっしゃる、どんなにそれを無視しても
ちゃんといらっしゃる、ということなのです。(滝沢克己『現代における人間の問題』)
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この滝沢の言葉を私なりに簡単な言葉で言い換えるならば、神が共におられる(インマヌエル)という「生命の基点」が無条件に全ての人にある、ということです。全ての人に神が、生きる根拠として、すでに共にいてくださるのであります。つまり「生きているだけで救われている」のです。
このような「生命の基点」において、動くことも考えることもできないKさんは、すでに救われています。そして私共も、あらゆる全ての人も、この「生命の基点」の存在においてこそ、「生きているだけで」すでに無条件に救われているのです。
私共はこれ以上、救いを求めて右往左往しなくてよいのです。安心しましょう。
(2024年7月5日)